水町通信 <第16号>

◆水のかたち〈5〉
水の守護神─横浜を愛した写真家、原田正路の内景
mizumachi_16-1.jpg 水町通に住んでいた原田さんにとって山下公園は庭のようなものである。この像はちょうど原田さんの住いの目と鼻の先にある。中華街からの道が緩やかな「く」の字に曲がった水町通の頂点を突っ切ってぶつかった個所、山下公園のほぼ真ん中に位置する。
 この像は山下公園の接収解除直後の1960年(昭和35)横浜市と姉妹提携を結んだサンディエゴ市から記念に贈られた。水瓶を持った女性像は水が貴重だった西部開拓時代の象徴であり、ハマの戦後復興にも貢献している。
 女性像は東を向いており、像の故郷サンディエゴ市の方向と想像してもよい。原田さんは像の視線と同じ朝日が昇る方角にカメラを構えている。1日の始まり、暮らしの始まり、国の始まり・・・、そんなことをこの写真は考えさせてくれる 。
※原田正路:1931年旧満州大連に生まれる。戦後長崎、福岡を経て、1986年京橋のINAXギャラリーでの個展を機に横浜へ移住する。横浜のほかドイツやオーストリアで個展を開催。1999年1月死去。

水町通りのモダン〈9〉
谷崎潤一郎(※1)「港の人々」─踊り明かすウォーター・ストリート
mizumachi_16-2.jpg 30代半ばの谷崎潤一郎が小田原から横浜に移ったのは大正10年9月のことで、12年9月1日の関東大震災に襲われるまでの2年間は、ハマがもっとも爛熟した文化を享受していた時期であった。このエッセイの原題が「横濱のおもひで」とあるように、そこに描かれているのは、西洋文化に関心を抱く耽美主義者谷崎が見聞した楽しくもはかない人生のひとこまであった。さまざまな外国人との隣近所の付き合い、風俗や人種の違いを超えて共通に見えてくる人情、作家の視点は日本人も外国人もともに生活を楽しむ居留地(※2)の面影を残す横浜独特の雰囲気の中で見えてくる男女の交情の機微にあった。
 そこで谷崎一家が打ち込んだのはダンスであった。山手の自宅付近で外国人に習い、水町通沿いのオリエンタル・ホテル(※3)やグランド・ホテル(※4)の舞踏会に繰り出しては、夜中の2時、3時まで酒を飲み、踊り明かす、そんな生活が続く。「ニュー・イヤース・イーヴの仮装舞踏会は大晦日の晩の十時ごろからグランド・ホテルのダンス・ホールで、徹夜で行われるのだった。せい子はアイリッシュ君のディナーに呼ばれて七時頃から出かけて行き、私と妻は十二時過ぎに谷戸坂を降りてウオター・ストリートの裏玄関から這入って行ったが、這入ると直ぐに「ハッピー エ ニュウ イヤー」と四方八方から見ず知らずの西洋人に握手された。」と回想する。ここには後の文豪のイメージとは異なるモダンボーイ谷崎がいる。
 ところでこの引用文に登場するせい子は妻千代の妹で、横浜の谷崎一家の一員として一つ屋根に住んでいた。妖艶な魅力を持つ女性として人目を引き、大正活映(※5)の映画に主役を演じる女優でもあった。そして震災後移り住んだ関西で発表する『痴人の愛』に、自由奔放な生き方をするナオミのモデルとして描かれる。
 
※1谷崎潤一郎:1886年(明治19)東京都日本橋に生まれる。1965年(昭和40)湯河原の自宅で死去。代表作『細雪』。
※2居留地:1899年(明治32)下手居留地を山下町、山手居留地を山手町と改称、以後居留地は撤廃される。
※3オリエンタル・ホテル:明治36年開業、山下町11番。
※4グランド・ホテル:明治6年開業、居留地(山下町)18、19、20番
※5大正活映:大正活映株式会社のこと。1920年(大正9)設立。谷崎が顧問。本社は水町通、撮影所は元町 。